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俺の話を聴け

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好き嫌い

俺は食い物には好き嫌いがない。
食べられない、というものがない。
もちろん食べ物であることが大前提ですよ。
それでも年を経てから初めて出会う食べ物も当然あるわけで、初めて口に入れたときうげっとなった経験はある。
そのままその食い物を一生口にしなければそれが嫌いな食い物になるのだろうが、俺はこれが許せない。
というか悔しい。
今俺がうげっとなった食い物も、世の中にはこんなうまいものないよなぁなんてうっとりして食うやつが必ず居るはずだ。

それが悔しい。
そいつの至福を俺も味わいたい!と思うのだ。ではどうするのか?
俺はうげっとなったその食い物をひたすら訓練する。
つまり何度も何度も食い続ける。
うまさがわかるようになるまで。(高価なものは無理ですよ)

中学生のころかっこつけでタバコを吸うのがいやで、つまり本当に吸いたいと早く思えるようになろうと、涙を流しながら立て続けにタバコを吸ったのと同じだ。
皆さんも経験あるでしょう、こんなこと。
ない?
あそ。
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2008/03/29(土) 23:34:35 徒然 トラックバック:0 コメント:0

俺の書く文章について2

くどい、くさい、理屈っぽいの三重苦と言われる俺の文章でも、なぜか依頼を受けることがある。
これまでに依頼されたものにはこんなものがある

イベントのキャッチコピー
企業のCIメッセージ
ミュージカルの原案
クラブのテーマソングの作詞
ミステリー仕立ての芝居の台本
某企業社長挨拶文
某楽団創立記念誌の挨拶文
某演劇祭審査員代表挨拶文
某議会答弁書
漫才の台本
就職試験の小論文
手作り絵本の同人誌寄稿文
プログラムの曲目解説
演劇業界紙の劇評
社内報の穴埋めコラム
卒業式で3年生に送る後輩たちが演じるコント台本、などなど。

そんなものの中で、考えるのが一番楽しかったのが「おねえちゃんの誕生日にプレゼントと一緒に贈るメッセージ」である。

どういうわけかこれをしょっちゅう俺に頼んでくる先輩がいた。
一年に何回も誕生日が来る人はあまりないと思うが、このクライアントはは一年に何回もこのコピーをオーダーしてきた。
しかもダメ出しが非常に厳しかった。

あるとき、締め切りぎりぎりでそのクライアントである先輩に公衆電話で(携帯なんて無い頃さ!)できあがったばかりのメッセージを伝えたことがある。

えーといいですか、
春を呼ぶ3月の温かい雨よりも、5月の朝の透き通るような緑の木漏れ日よりも、水しぶきを少年の笑い声に変える8月の太陽よりも、僕には君の笑顔です。・・・え?ダメ?くどい?

えーとじゃぁ・・
○○歳の君にはきっとステキな出来事があります。○○歳の僕が君と出会ったように。
え?これもだめ?届かない?

電話口で必死に愛のメッセージを叫ぶ俺を、隣の女子高生がぎょっとした顔で見ていたのを覚えている。

2008/03/28(金) 23:32:41 徒然 トラックバック:0 コメント:0

ビールのこと

ビールが好きだ。
ほぼ毎日飲んでいる。いやすまん。ほぼ、じゃない。毎日欠かさずに飲んでる。
したたかに飲んで帰ってきても必ず家でビールを飲む。
最近は義務感のようなものさえ感じる。
昔は、休みの日は朝起きるといきなり冷蔵庫をあけていた。
もちろんポン酢を取り出すわけではなくビールを飲むために。

若いころは、酒の中でというより、口の中に入れるものの中で一番好きなものがビールだと思っていた。
銀座の交詢社ビルにかつてピルゼンというビアホールがあった。
この店が大好きだった。
ビールはもちろん、食べ物もうまかったし店の雰囲気もよかった。
ランチタイムからやっていたので、休みの日に銀座の本屋をはしごしたあと、買った本とピクルスを肴に昼間からこの店でビールを飲む、という、お前は植草甚一かっ!みたいな過ごし方が大好きだった。

そしてもう一軒、ご存知の方も多いかと思うが、かつて日本一うまい生ビールを出す店「灘コロンビア」という店が八重洲にあった。
この店のご主人、新井徳司さんという名人が工夫を凝らしたサーバーで注ぐビールは、本当に感動的にうまかった。
どこがどうそんなにうまいのか、知りたい人は自分で調べてください。
いろんなところで灘コロンビアのビールに関する話は見つかると思う。

そして新井さんもこの二軒のビアホールも今はない。

ところが昨年、この灘コロンビアのサーバーを受け継いだ、新井さんの技を継承する唯一のお弟子さんが開いている店を偶然に発見したのだ!
この店の生ビールを飲んだとき、俺は思わず、笑った。
感動と懐かしさと驚きとそのビールのうまさに俺は笑った。

店の名前も場所も内緒です。
どうしても行きたい人は俺と一緒に行きましょう。
2008/03/27(木) 23:20:25 酒の話 トラックバック:0 コメント:4

アカペラ漫才3

俺たちのステージは快調に進んでいた。
もともと与えられた時間よりオーバーするつもりだったので最後のサゲは、しゃべっている途中で幕が下りてくる、というものだった。
舞台監督ともきちっと打ち合わせしていた。

エンディング間近、俺のきっかけセリフで幕が降り始めた。
俺たちはかねて用意の最後のボケをかました。
あらららっ!もう幕下りちゃうんですか~、えーもっとしゃべらせてぇぇぇ
やった。完璧だ。
俺たちのステージはこれで大爆笑のうちに終わり、客席は大拍手・・・

と、思ったそのとき、どういうわけか幕が途中から上がりだした!
驚いて袖の舞監を見た。
あれほど打ち合わせしたにもかかわらず、俺たちのボケの、えー幕下がっちゃうんですかーのせりふをなぜか真に受けてしまったのだ。
あせって一生懸命幕をあげている。
俺たちは、やっぱり幕を下ろしてください、とも言えず、舞台上で凍りついた。
もともとネタは一本だけ。いくつかあった小ネタもさっき調子づいてアドリブで全部やっちまっている。
引きつる俺たち。少しずつ引いていくのがわかる300人のオーディエンス。
何か言わなくちゃ何か言わなくちゃ何か言わなくちゃ・・・
このとき、さっきまで俺たちを祝福してくれていた笑いの神様は悪魔に豹変した。
俺は悪魔に導かれるように頭に浮かんだギャグを叫んだ。

布団がふっとんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

今度は俺たち以上に客席が凍りついた。
逃げるように袖に引っ込むと、舞台監督の首を絞めに行こうとする相方を押さえたことは覚えているがその後の記憶がない。

このイベントはローカルのケーブルテレビ局なども撮影に来ていた。
そしてその後、俺たちのネタ15分、完全にノーカットで一週間一日5回くらい放送された。
「ご主人はああいうお仕事されているんですか」と近所の人から言われたカミさんは、もう外を歩けないと激怒していた。
2008/03/24(月) 22:44:10 未分類 トラックバック:0 コメント:0

アカペラ漫才2

俺たちのアカペラ漫才は、1日2ステージ(披露宴と二次会、当然違うネタ)などということも珍しくなかった。
会場にマイクスタンドや譜面台がなければ自分たちで車に積んで持参したりした。
披露宴から二次会会場まで衣装や靴などの大荷物を抱えて(披露宴と二次会では衣装を変えていた!)電車移動しているときなど、営業に回るお笑い芸人そのものだった。

そのうち、いろいろなパフォーマーが同じステージで芸を披露するというイベントから声がかかった。
これまで仲間内の宴席でしか経験のなかった俺たちが、俺たちのことなどまったく知らないオーディエンス300人の前で歌ってネタをするのだ。

当然俺は怯んだ。
歌はともかく、しゃべくりのネタは仲間内の、いわゆる楽屋落ちのようなネタが中心だったからだ。
しかしなぜか相方は自信満々だった。間違いなく受ける、と断言する。
俺も次第にその気になっていき(おだてに調子づくわけです)、苦労して本を書き上げた。
そして、本番まで何度も稽古し、ネタも完璧に頭に入れ、俺たちは余裕で初舞台を迎えた。

鉄板ネタのオープニングボケ三連発もきまり、上々の滑り出しだ。
お客に受けると俺たちのテンションも上がってくる。
歌もきれいにハーモニーが決まった。
台本にないネタでボケても相方は見事に突っ込んでくる。
笑いの神様が降りてきてる。舞台上で俺はそう感じていた。
そう、あのエンディングまでは。・・・またつづく。

2008/03/22(土) 22:22:26 昔のこと トラックバック:0 コメント:2

アカペラ漫才

昔よく漫才をしていた。
うーむ、この言い方は正確じゃないな。
進化の果てに、限りなく漫才に近いパフォーマンスを行う羽目になっていった、という感じか。
うーむこれじゃ何言ってるのか俺にもさっぱりわからん。
順序だてて話をしなけりゃだめだな、こりゃ。

昔、友人の結婚式や二次会のパーティで、仲間内ではでお調子者ツートップの誉れ高い俺と相方が余興を頼まれる、ということが多かった。
俺の相方は、今では作曲も手がけるミュージカル劇団の主宰になっているほどなので、相方の編曲でよく歌を歌った。
アカペラできっちりハーモニーを聴かせるわりとカッチョいい余興だった。と思う。多分。
歌う前とか、歌の間に(1曲じゃないところが今思うとやや恥ずかしい)スピーチというか、新郎新婦をいじるトークを入れる。
つまり、クールなアカペラとのギャップで笑いを取っていくというスタイルだった。
このネタ作りは俺の担当だった。
初めのころはその場で思いついたような俺のボケに相方がきよし師匠のように突っ込みを入れる、という形だったが、だんだん受けるようになってくると俺たちの芸人魂(?)が燃えてきた。
歌は相方が書き起こした楽譜で練習していたが、ネタもきちんと台本を作るようになっていった。
練り上げた台本で稽古する時間がいつしか歌の練習より多くなっていった。

あるとき、「結婚式で歌われがちな曲メドレー」をやろうということになった。
ネット、なんて概念すらなかったそのころ、俺たちは歌詞の確認と練習をかねてカラオケに行った。
練習が佳境に入って、二人で熱唱していたところに、店のお姉ちゃんが頼んだ飲み物を持ってきた。
お姉ちゃんは、カラオケの店員にありがちな、ノックと同時にドアを開けると運んできた飲み物の復唱をしようとした。
お待たせしました~生ビールと青りんごサワ・・・
お姉ちゃんが一瞬凍りついた。

そのとき俺たちは真剣にてんとう虫のサンバを熱唱していた。
画面に向かって気をつけの姿勢で。しかもきれいなハモリまでいれて。
お姉ちゃんは見てはいけないものを見てしまったような恐怖の表情のまま、ほおり投げるように飲み物をテーブルに置くとそれきり何を頼んでも俺たちの部屋には来なかった。
この話ちょっとだけ続く…
2008/03/21(金) 23:34:41 昔のこと トラックバック:0 コメント:1

監視員のころ5

酔っ払ってブログの更新なんてするとろくなことがない。
同じネタを二つアップして丸一日気がつかなかった。反省。
ということで昨日の続きはいずれまた。仕切り直しで違うお話。

俺がいたプールは年中無休の温水プールだったが、さすがに年末年始は休館になった。
監視員とはいっても所詮時給なんぼのアルバイト。年末年始一週間の休みは1月の給料に大きく響く。
そこで俺たちの会社はこの期間、素敵な仕事を用意してくれていた。
それは市場の警備の仕事だった。
市場が休みになるこの期間、ゴミ回収も休みになる。ところが近隣の小売の魚屋にとっては書き入れ時なので、たくさんのゴミ(スチロールの箱など)が出る。
魚屋はこのゴミを市場に捨てにくるのだが、24時間体制でこれを阻止する、という実にキュートでおしゃれな仕事だった。
朝8時から夕方4時までの8時間勤務と、夕方4時から翌朝8時までの16時間勤務の2パターンがあった。
市場はものすごく広いし、いつどこにゴミを捨てに来るかわからないので、全体を見晴らせる市場の真ん中でドラム缶の焚き火をしつつ自転車で巡回警備をする、というものだった。
一晩中吹きさらしの状態なので非常に寒い。安いウイスキーをラッパ飲みしながらひたすら交代要員がくるのを待ち続けた。
巡回をしながらも、魚屋と遭遇してバトルになるのはできれば避けたいので、なるべく魚屋さんと会いませんようにと祈りながら巡回していた。
これじゃ何のための巡回だかよくわからないが、運悪くゴミ捨ての魚屋と遭遇してしまうこともあった。
だまってゴミを持ち帰る魚屋もいたが、年末の気の荒い魚屋にすごまれると、じゃあその辺に適当にお願いします・・・などといいながら見なかったことにする、というとても人間くさいテクニックを駆使しながら従事していた。

明け方に、焚き火で沸かしたお湯でカップラーメンを食べていると、猫が寄ってきた。
市場に住み着いている野良猫だ。見ると丸々と太っている。俺はその猫に、カップラーメンに入っていたペラペラのチャーシューを放り投げた。
するとその猫は一瞬だけそのチャーシューのにおいをかぐと、俺のほうに向き直ってちょっと笑った(様な気がした)。
猫はそのままつまらなさそうにゆっくりと暗闇に消えていった。

ああ、この猫は俺よりよっぽどましなものを食っているんだなぁ・・・
なんだかがっかりした俺はカップラーメンの残りを焚き火にぶちまけると、こう思った。
今年こそちゃんとしなくちゃなぁ・・・俺・・・

へーっくしょおぉぉーーい!

間抜けなくしゃみをひとつすると東の空が白み始めていた。
198○年の元旦のことでした。
2008/03/18(火) 22:44:58 昔のこと トラックバック:0 コメント:0

バリのこと

昔よくバリへ行った。インドネシアのバリ島だ。
初めて訪れたのは確か1986年2月。今から22年も前だ。
その後バリをとても気に入った俺は連続5年間バリに行くことになる。一年に二回行ったこともあった。
そんな大好きなバリで、今そでこそいい思い出だが、初めて行ったときはいろいろ大変な思いをした。

初めての海外旅行であったがほとんど個人旅行のようなツアーだった。
というのもこのツアー、一緒に行った友人Mのおじさんの友達が経営していたサーフショップ主催のツアーだった。
ツアーといっても参加者は俺たち二人だけ。
手続きは何から何まで自分たちでこなさなければならなかった。
パスポートの申請に行ったときも渡航費用があることを証明する書類の提出を求められた。
俺は給料が振り込まれた直後に記帳した通帳を持っていった。
もちろんほとんどすぐに引き出していたが、引き出した記録の記帳はしていなかった。
係官は俺の通帳を一瞥すると、フン!と鼻で笑い(そんな気がした)書類にDと書き込んだ。D?Dってなに?金額がDランクってこと?

出発の日、成田のどこの旅行会社のカウンターに行っても俺たちのチケットがない。
しょうがなくサーフショップの社長に電話するM。
いやーごめんごめんツアーの名前間違ってたみたい。○○ツアーだから、その辺のカウンターのおねぇちゃんに聞いてみて~ガチャン・・・
こんな感じで電話が切れたらしい。
俺たちにはツアーには当然あるべき、しおりというか案内パンフレットみたいなものは一切なかった。
バリでの宿の名前が書いてあるステッカーが一枚と、前日にサーフショップの社長から受けたという簡単な説明が友人Mの頭の中にあるだけだ。

何とか時間ぎりぎりで搭乗するとすぐにアテンダントが、紙のお手ふき、のようなものを抛り投げるように配り始めた。
俺たちはこのお手拭の封を空け、両手を拭いた。が、これが大失敗だった。
このお手拭は強烈な芳香を発していたのだ。
安い香水を煮詰めたような、日本人には理解しがたい匂いだ。
俺たちはまるで、駅のトイレの小便器に転がしてある黄色い玉をずっと両手に持ち続けている人みたいになってしまった。
まぁしょうがない、次からは気をつけようと、落ち着いて周りを見た。
今度はあまりの飛行機のおんぼろさ加減に驚いた。
今でこそバリは日本人観光客が大挙して訪れる観光地であり航空会社もきっと潤っているだろうが、某国のその飛行機は実に味わい深い飛行機だった。
まず様々な説明書きが全て読めない。英語で書かれていないのだ。
インドネシア語でもない。機内の説明書きは全てアラビア語で書かれていた。
中東のどこかの国の払い下げ機を使っているようだ。
外装は変えられているが中身はそのまんま。それが何か?といった感じだ。
アラビア語ってのは右から左に書かれる文字である。俺のアラビア語に関する知識はそれだけだ。
でもまぁ機内の説明が読めなくたって特別困らない。
困ったのは座席のリクライニングがぶっ壊れていることだった。
座って背もたれに寄りかかるとそのままスーッと後ろに倒れてしまうのだ。
おおっ便利じゃないの、なんてMと笑いあっていたのも離陸のときまでだ。
飛行機が滑走路に入って加速を始める。体にGがかかってくる。俺たちのいすは自然と後ろに倒れてくる。するとアテンダントがものすごい形相で俺たちのところへ飛んでくるのだ。
背もたれを元の位置に戻せという。俺たちは必死で背もたれが壊れていることを伝える。
でもそんなことには耳も貸さない。元に戻せの一点張りだ。
こんなぶっ壊れ飛行機のスタッフなのに、そこだけ妙にかたくなだ。
しょうがない、アテンダントへの説明をあきらめた俺たちは、次第に加速されてさらに加わってくるGにありったけの腹筋の力で絶え続けた。
水平飛行に入りやっとシートベルト着用のサインが消えると俺たちのかわいそうな腹筋は痙攣を起こしそうになっていた。
はーやれやれ、出だしからこれじゃこの先いったいどうなるんだろう。
そう思いながらやけに揺れる機内をよろよろ歩いてトイレに入った。
そしてそこには見事にぶっ壊れた便座が俺を見上げていた。
おれは南の島の太陽を思うよりも行く末に立ち込める暗雲を思っていた。つづく
2008/03/18(火) 00:04:30 昔のこと トラックバック:0 コメント:0

俺の書く文章について

俺は文章が苦手だった。作文が嫌いだった。
テーマを与えられて、そのことについて作文を書くのが苦痛だった。
本を読むことはガキのころから嫌いではなかったが、本を読んで、自分が感じたことを文章にしてみると、そこには明らかに俺が感じていることとは違うことが書いてある。
何のことはない、文章力がないだけの話だが、ガキながらも俺はこの歯がゆさにイラついた。
だから作文が嫌いだったし、文章にコンプレックスを持っていた。

高校のとき現国の授業で読書感想文を書かされたことがある。
そこで俺は、読書感想文ではなく、本と本を読むことについての随筆というか、常々俺が思っていたことを書いた。
本を読むことは好きだけど、読書は決して趣味じゃない、生活の一部だ。とか、本を借りて読むやつの気が知れない。本は買うものだ、たとえ読まなくても。などなど。
そんな生意気なことを原稿用紙十数枚書いた覚えがある。
肝心の課題図書の感想は半ページにも満たなかった。
ところが、この生意気な作文が現国の先生に痛く気に入られた。教室で読み上げられたりした。
どうやら、俺の本に対する考えに先生が共感してくれたようだった。
俺の作文を読み上げながら、先生は笑って、俺も同じだ、と何度も言ってくれたのを覚えている。
おれは目からうろこが落ちたように感じた。
へぇあれでいいんだ。やけくそで好き勝手に書いたあんな文章がありなんだ。
俺の文章はこのときから変わったような気がする。

俺の文章は、くどい、くさい、理屈っぽい、の三重苦といわれている。
それでも、昔から明らかに文体に影響を受けた三人の作家がいる。
それは、伊丹十三、東海林さだお、椎名誠、の三人である。
あっ、気取った文章を書くときは村上春樹が顔を出すこともある。ちょこっとだけね。
もちろん三人とも名文家であり、エッセイの名手である。
だが、「私、谷崎潤一郎、梶井基次郎、三島由紀夫に影響を受けました・・・」などといって、小さく咳をしつつ遠くを見つめたりする人が隣にいたら、やっぱり言いにくいかなと思う。
2008/03/16(日) 23:01:42 徒然 トラックバック:0 コメント:5

監視員のころ4

プールの公開時間が終わると、必ず水底確認という作業があった。
文字どおりプールの底を潜水でコースごとに確認して行く作業だ。
プールの底には実にいろんなものが落ちていた。いろんなゴミに混ざってコイン、指輪、歯(差し歯)なんかもよく落ちていた。
コンタクトレンズもよく落としてしまう人がいた。
コンタクトレンズなんか見つけられるの!と思う人もいるかもしれないが、水の流れによって、ごみなどがたまるポイントがあり、底をはいつくばるように探すとハードレンズであれば見つけることができた。
コンタクトレンズ等は発見すると落とし主から非常に感謝されるので、いわばうれしいと言うかありがたい落し物だった。
ところが非常にありがたくない落し物もある。
俺がいたプールは3歳以上でないと入ることができなかったが、それでもありがたくない落し物、う○○、が時々落ちていた。

監視員の先輩にOさんという人がいた。
この人はまさに天使と悪魔が同居しているような人だった。
にっこり笑ってばっさり人を斬る、そんな人だった。
そのころ、新人でTという男がいた。地方から上京して大学に通うまじめな苦学生だった。
Oさんはなぜかにっこり笑いながらこのTという男をいじめていた。
いじめというといかにも陰湿なイメージだが、なぜか二人の間にはほほえましいような雰囲気があった。
いじめられながらもTはOさんを慕っているようだった。
ここがOさんの悪魔的なところで、天使のような笑顔で周りの人間を煙に巻いてしまう人だった。

あるときこのOさんが水底確認を行っていた。
そしてありがたくない落し物を発見した。
目の悪いOさんは、ただのゴミだと思ってその○ん○をつかんでしまった!うげっ!

こんなとき人はどういう行動にでるだろう。
うわー!○○ち掴んじゃった!と叫んで他の監視員の笑いをさそうとか、だまって排水溝に流して他の人に気づかれないようにそっと手を洗う、そんなところではないだろうか。
ところが悪魔のOさんは思いもよらない行動に出た。いきなり足がつった芝居を始めたのだ。
おーいT!足がつっちゃった!ちょっときてくれ~!
Oさんはプールサイドまでたどり着くと大声でTに助けを求めた。
プールサイドで掃除をしていたTはあわててOさんのもとへと走った。
プールの端でぐったりしているOさんに、大丈夫ですか!とTが手を差し出した。

するとOさんは、心が洗われるような穢れのない天使の笑顔で差し出されたTの手をつかんだ。
ぺちゃり…
2008/03/15(土) 22:17:11 昔のこと トラックバック:0 コメント:0

走ることについて語るときに俺の語ること6

バイクのツーリングではツーリング者(変な言い方)同士がすれ違うときには、Vサインを出し合うのが約束らしい。
このことを知ったとき「いい話だなぁ」と思った。
実はこれとおんなじことをランナー同士でできたらいいなと思っている。
というのは、河川敷ですれ違うランナーはことごとくお互いを無視、というか挨拶なしだ。
当たり前だと思われるかもしれないが、散歩中のお年寄りの中には挨拶してくれる人が結構いるのだ。
俺は人と挨拶を交わすのが好きだし、第一気分がいい。
気持ちいい挨拶はなんとなくその日一日をハッピーな感じにさせる。

ゆっくり走っているとはいえランナー同士がすれ違うのは一瞬のことなので、「おはようございます。今日はいい天気ですねぇ。」というわけにはいかない。
バイクツーリングのように片手で出すサインのようなものがあればいいのになぁと思っている。

片手でさっと出せてクールなサイン。
どなたかいいサインを考えてくれませんか。
カトちゃんぺ、みたいなのはだめですよ。
2008/03/13(木) 22:53:20 走ること トラックバック:0 コメント:2

お医者様はいらっしゃいませんか!4

大きなスポーツ施設にいたのときのことである。
隣接しているサッカー場から、ケガ人が出たと連絡があった。
行ってみると、ゴールキーパーがゴールポストにぶつけて目尻を切ったようだ。
すでに救急車が要請されていたが、救急隊が到着するまでの応急処置を行った。
タオルで傷を押さえていたので、患部を消毒し三角巾で縛り時間を記録した。
すぐに救急車が来る安心感もあったし、自分で言うのもなんだが、素人の処置としては完璧だ。
と、そのときは思った。

一人で納得しているところに救急車が到着し、すぐに救急隊員が現れた。
俺はちょっと胸をそらしつつ、周りを取り巻く人の輪から得意そうな顔で一歩前に出たりしていた。
ところが救急隊員は俺の施した処置を見るなり、周りをにらんで怒ったような大声でこういった。
「誰がこの処置を行いましたか!」

息を呑んで二歩下がる俺。
ほかのチームメートも職員もその場の全員が凍りついた。
救急隊員がさらに大きな声で言う。

「この、処置を、行ったのは、だ・れ・で・す・か!!」

やれやれ、生兵法はケガの元とはよく言ったもんだ。
医者気取りで余計なことしちゃったのかなぁ。
どこがまずかったのかなぁ。
隣にいる職場の後輩を指差して「こいつです」って言っちゃおうかなぁ。
事情聴取とかされちゃうのかなぁ。
逮捕されて一生佐渡ヶ島で金山掘ったりすんのかなぁ俺…
そんな思いが頭をぐるぐる回りだした。

しょうがない。俺は観念して蚊の鳴くような声で言った「わ、私ですが・・・」
すると救急隊員は俺をキッとにらむと、怒ったような顔のままこう言った。
「適切な処置でした。ありがとう。」
俺はへなへなとその場にへたり込みそうになった。
「はぁ・・・」と答えるのが精一杯だった。

何もそんな言いかたしなくたっていいじゃないか!
適切な処置でしたってのを最初に言ってから誰ですかって聞けよ!!もー!
そしたら、俺です俺です俺ですって連続十回くらい叫んだのに…
2008/03/12(水) 14:55:41 昔のこと トラックバック:0 コメント:3

走ることについて語るときに俺の語ること5

ランナーズ・ハイという言葉がある。
走っている人が名前を呼ばれたら元気よくする返事のこと、ではない。
走っている最中に脳内麻薬であるエンドルなんとかが分泌されてハイな状態になることを言う。多分。
これの中毒でランニングをやめられなくなってしまう人もいるらしいが、俺の経験から言わせてもらえばそんなに簡単にそんなものは出てこんぞ!といった感じである。
まぁ確かに走り始めはいつも「今日は足が重いな」とか「調子悪いな」とか思っていても、ある時間から急に楽になることがある。
でもハイってほどの状態じゃない。

いや待てよ、一度だけそんなことがあったぞ、確かに。
忘れもしない十数年前の東京シティマラソン(そのころはハーフマラソンでした)のゴール近くだ。
疲れていて息も上がっているのに、急になぜかものすごくハッピーな気持ちになった。
一緒に走っていた友人に「俺今すっごく楽しいよ!」と叫んだことがある。
(友人はそのとき確か「俺は苦しいよ!」と答えた)
そのままいっぱいの幸福感に包まれながらゴールしたことを覚えている。
後にも先にもそんな経験をしたことはないが、確かにあの時俺の脳の中には何かがだくだくと分泌されていたと思う。

それが自由に出せたら・・・そういえばエンドルなんとかを取り出して麻薬として売る、見たいなSF映画があったっけ。
誰でもおんなじ様なこと考え付くんだな。
2008/03/11(火) 15:29:35 走ること トラックバック:0 コメント:1

防災訓練

このあいだ職場で防災訓練があった。
いつもより大掛かりで、消防署からポンプ車やはしご車もやってきた。
そして何の因果か俺は「高層住宅の7階からはしご車で救助される人」になった。
本来その役をやるはずだった職員が、7階という高さにびびったのか突然休みやがった。
そいつの代わりに俺がその役をする羽目になったわけだ。
前日に突然この話を聞いたとき、俺は真っ先に「・・・時間がない」と思った。
7階という高さへの恐怖でもなく、ましてや訓練参加のめんどくささでもなく、時間がない!と痛切に思った。
なんの時間かって?そりゃ「役作りのための時間」に決まってるでしょ。
俺が7階に取り残されたのはなぜなのか、どんなエピソードが隠されているのか、俺は最後でいいからこの女性を先に!などのせりふはどのタイミングで言うべきか、はしご車のゴンドラに乗りながら燃え上がる(想像)高層住宅を険しい表情で見上げるときの角度は何度がいいのか。
あー、もー考えなくてはならないことが多すぎる。
しょうがない、陳腐なストーリだがこれで行くか、と構想がまとまったのは訓練開始直前だ。

この高層住宅の設計士でもある俺は経費を削り続ける建築主とことごとく対立していた。
特に安全面では万全の設計をしたはずなのに、現場では俺の指示どおりの施工がなされていないらしい。
俺はこの話をかつてライバルでもあった正義感の強い現場監督から聞かされる。
俺は一番危険と見られている7階の施工を直接自分の目で確かめに行く。
するとやはり俺の設計ではありえないずさんな施工がされており、このままでは火災の危険さえあると怒りがこみ上げる。
そのとき案の定すぐ近くから火の手が上がる。
7階には数十人の住人が居る。すぐさま俺は住人を誘導し避難させる。
もう誰も残っていないかと7階に戻るとそこに泣きじゃくる男の子が!
早く逃げるんだ!でもポチが・・・見ると燃え盛る部屋の奥に悲しそうな声を上げている子犬が・・・
俺の設計したこの住宅で誰も死なせはせん!それが子犬一匹でも!
炎の中に飛び込む俺。煙と炎に巻かれながらも子犬を抱きかかえ廊下に飛び出す。
遠のく意識の中かすかに見えたのは、はしご車のゴンドラから飛び降りるレスキュー隊員だ。
この子と犬を頼む。俺は最後でいい。
俺の作ったこの住宅で誰も死なすわけにはいかないんだぁぁぁぁ・・・・意識を失う俺・・・

というバックグランドストーリーを、俺はゴンドラに乗っていた若い消防官に目だけで伝えようとした。
若い消防官はめんどうくさそうに「はーい、ゴンドラに乗ったら手すりにつかまってしゃがんでくださーい」と言った。
彼の声が心なしか上ずっていたのはきっと吹きさらしのゴンドラの上の寒さのせいではなく、渾身の演技がこめられた俺のまなざしに感動したからだと思う。
そうに決まってる。
2008/03/10(月) 22:42:47 徒然 トラックバック:0 コメント:2

お医者様はいらっしゃいませんか!3

ケガの応急処置は一応習っていたし、プールでは数え切れないほど擦り傷や鼻血の手当てをしてきたので、多少の出血やケガには冷静に対処できる自信はあった。
だが、救助員の講習で繰り返し何度も教わることがあった。
ひとつは「救助者自身の安全の確保」
もうひとつは「応急処置に留め、必ず医師の診療を受けさせる」、というもの。
つまり、生兵法で二重事故を起こしたり、患者の状態を悪化させるようなことは絶対にするなよ!ということである。

女の子の前に担ぎ出された俺は、腹をくくって女の子の様子を観察した。
骨折はない(ような気がする)ようだ。
傷を見てみる。鎖骨の下が2~3センチ切れているが深くない(ような気がする)ので出血はない。
消毒してガーゼを当てる。
固唾を呑んで見守る家族たち。クーラーが利いているのに額から汗が流れる俺。
「と、とりあえず裂傷(切れたところ、と言わないところがいやらしい俺)を消毒しました。縫合(縫う、と言わないところがさらにいやらしい俺)が必要だと思いますのでなるべく早く医者に見せてください…」
所見でもなんでもない。俺じゃなんにもできないので医者に見せろという見たまんまのバカの感想だ。
だが、一瞬の沈黙の後、回りから歓声が上がった。
「おおっ!」「ありがとうございます!」母親は涙目だ。
誰かが叫んだ。「日赤の先生がいてくれて助かった!」「あ、あの、せ、先生というわけじゃ…」
「日赤バンザイ!日赤の先生バンザイ!」「ありがとう!日赤の先生!本当にありがとう!」

その夜は、女の子の家族からウイスキーが届くは、民宿のおばちゃんからはビールがどんどん差し入れらるは大変な騒ぎになった。
俺たちは引きつった笑いを浮かべながら頂いた酒を全部ありがたく頂戴した。

次の日俺たちの行動は速かった。
どのお客よりも早く食事を済ませると逃げ出すように宿を出た。
道路がまだ開通していなかったので隣町まで山道を2時間歩き続けた。
隣の町が見えたときなぜか「助かった…」と思ったのを覚えている。
2008/03/09(日) 23:34:36 昔のこと トラックバック:0 コメント:3

お医者様はいらっしゃいませんか!2

明日をも知れぬプータローの監視員だったころ、同じ仲間と西伊豆の海に行ったことがある。
そこは伊豆半島特有の切り立った崖と崖の間にある小さな集落だった。
数軒の民宿と田んぼのほかにはまったく何もなかった。商店はおろか自動販売機すらなかった。
それでも船着場の堤防の脇にちいさな海水浴場があった。
岩場に魚網用のブイで区切っただけの海に、民宿組合と書かれた、たたみ二畳くらいの四角い鉄の箱が浮いていた。後は何もない。
海の家も、海水浴場にありがちな大音響で音楽をがなり続ける凶悪スピーカーも、誇らしげにレスキューチューブを見せびらかして歩くライフガードも、本当に何もなかった。
聞こえるのはうるさいほどのせみの声とかすかな波の音だけ。
そして海は飛び切りきれいだった。
鉄の箱は海岸から2~30メートルのところに浮いていて、その箱に乗って海の中をのぞくとたくさんの魚たちと水深5メートルくらいの海底までよく見えた。

この海にいつもより早く台風がやってきた。
海岸に出る道は大きな鉄の扉で閉鎖され、俺たちは民宿の部屋の中でただひたすら飲んでいた。
俺たちはいつも、食器などを運ぶのが面倒だったので、厨房と直結している大広間で食事していた。
民宿のおばちゃんの話によると唯一この村落とつながっている道路が土砂崩れで全面通行止めとなっているらしい。
俺たちには二、三日東京に帰れなくても何の問題もない生活だったので、特に気にすることもなく相変わらずのバカ話で盛り上がりながらビールを飲んでいた。
突然廊下の先にある階段のほうから大きな物音がした。
すると、すぐに高校生くらいの女の子が俺たちのいる大広間に担ぎこまれてきた。
食事の後食器を載せた大きなバットを持ったまま足を滑らして階段から落ちたようだ。
どうやらどこかを切ったらしい。大広間の真ん中に寝かされている。
その子の家族やほかの客、民宿のおばちゃんも騒然としている。
何しろ唯一の道路が不通で救急車どころか病院に行くことさえできない。
どうしようどうしようとそこにいる全員がうろたえていた。
ここで俺の仲間が余計なことを小さな声でつぶやいた「あのー、日赤の救助員ならいますよ。」
驚いてそいつを振り返る俺。その場の全員が「日赤」と言う言葉に反応した。
お願いします、ぜひ手当てをしてやってください。お願いしますお願いします。どうか助けてやってください。手を合わせるその子の家族。
いやいや俺はプールの監視員なだけで・・・と言う俺の言葉は誰の耳にも届かない。
俺はなかば強制的にその子の前に担ぎ出された。ど、どうする俺?・・・またつづく
2008/03/08(土) 23:10:35 昔のこと トラックバック:0 コメント:0

大酒を飲んでいたころ2

強烈な酒飲みWと二人でバイト先の上司の家に行ったことがある。
なぜ行ったのか用事は何だったのかはすっかり忘れているが、そのときのことは良く覚えている。
たずねていった上司はなぜか家におらず、上司のお父さんが俺たちを迎えてくれた。
お父さんとWは面識があり、強烈な酒飲みだということをよく知っていたようで、すぐに俺たちに酒を出してくれた。
ところがこのお父さん、実に豪快なお父さんだった。
一升瓶から俺たちのコップに酒をついでくれるのだがそのビンの持ち方がスゴイ。
首のところを持つのではなくビンの底をわしづかみにしているのだ。で、俺たちがコップの酒を飲み干すまで一升瓶を持ったままなのだ。
俺たちがあわててコップ酒を飲み干すと「まぁ飲め!」といってなみなみと注いでくれる。
またビンを離さない。急いで飲み干す俺たち。どんどん注ぐお父さん。まるでわんこ酒だ。
あっという間に一本からになった。すぐに二本目が開けられた。またわしづかみで酒を注ぐお父さん。
そのころの俺たちは、日本酒ならなんとか一升くらいは飲めていたが、さすがにそんなスピードで飲んだことはなかった。
ほどなくたずねていった上司が帰ってきたことは覚えているが、その後の記憶がない。
特にその家で大失敗をした記憶もないので、さほどは酔わなかったのかもしれないが、一升ビンわしづかみお父さんと、ビールのように飲んだ日本酒の味は鮮明に覚えている。・・・ような気がする。あれ?
あっ!昨日の続きを書くのを忘れてる・・・
2008/03/07(金) 23:15:02 昔のこと トラックバック:0 コメント:2

お医者様はいらっしゃいませんか!

「お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか!」
飛行機の中で緊張気味のアテンダントの声が流れる。
「急病人が発生しました。ご搭乗のお客様の中でお医者様はいらっしゃいますか!」
このとき、読んでいた英字新聞をパサリと傍らに置き、ゆっくりと立ち上る陰のある男。
あわてているアテンダントに低い声で声をかける。「・・・患者は?」
患者に適切な手当てを施したのもつかの間、機長と副操縦士が謎の急病で倒れる。
パニックになりつつある搭乗員を制して、昔外人部隊に従軍していたころの技術で無事飛行機を着陸させるが、喜びあう乗客を尻目に空港の雑踏に消えていく外科医。
俺は昔、人に「何になりたかった?」と聞かれるとこう答えていた。けっこうバカ?

でも一度本当にこういう場面に出くわしたことがある。
ハワイに向かう飛行機の中、「お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか?」というアナウンスが流れた。
読んでいたスポーツ新聞をパサリと傍らに置いて、ゆっくりと立ち上がろうとした俺を隣にいたカミさんがものすごい力で押さえつけた。
しばらくすると、引退直前の江夏みたいなオヤジが実に不機嫌そうに表れた。
おそらくはファーストから来たであろうそのオヤジは、俺たちの乗っていたエコノミーの再後部、圧力隔壁のすぐ前まで来てこういった。「どこ?患者は!?」
みょーに甲高いイラついた声だった。でもさすがはドクター。ホノルルに到着するまでずっと患者に付き添って、床に座っていた。
空港にも適切な指示を出していたようですぐに患者は搬送されていった。
一部始終を見ていた俺は、こんなとき飛行機に医者が乗り合わせていなくて、俺がカミさんの静止を振り切って出て行ったとしたらどういう展開になっていたのかなぁとウスラバカな妄想に浸っていた。
すると突然俺の頭に二十数年前の出来事がよみがえってきた。
台風で孤立したあの村落の夏、村人たちから「先生がいてくれて助かった」と言われたあの夜のことを・・・つづく
2008/03/06(木) 23:46:07 昔のこと トラックバック:0 コメント:0

サポーター

先日、俺の仕事をサポートしてくれているボランティアの人たちと酒を飲んだ。
ボランティアのサポーターを導入してから10年目、初めて実現した懇親会だ。
俺のチームを含めて参加者の総勢15名。
サポーターの長老は元海軍将校の83歳!
他にも元プロの劇団の舞台監督、シンガポールに8年駐在していた商社マン、現役カメラマンなどなど実に多様な人たちがそろっている。
芸術や音楽への造詣の深さも、人生経験も厚みも、そして何よりも崇高な奉仕の精神も、俺はこの人たちに全てかなわない。
だからこそ俺はいつもこの人たちと対峙するとき全身全霊で語りかける。
俺がやってきたこととやろうとしていること、その意味と使命を。
この人たちにうわべだけの言葉は届かない。
自分が信じていることを自分の言葉で伝えないと、この人たちの心には響かないのだ。

それにしてもこの人たちの酒宴の楽しみ方は半端じゃない!しかも酒が強い強い!
まさに人生の達人ぞろいだ。俺もこういう風に年を重ねたいと心底思った夜でした。脱帽。
2008/03/05(水) 23:12:55 未分類 トラックバック:0 コメント:0

コメント

コメントにはちゃんと返事をするもんだぁ、と○○高校2年7組水泳部に言われたので、返事を書いてみた。
みなさんこれからもコメントお願いします。
ちなみに、俺はほめられると伸びるタイプなのでそこんとこよろしく。 2008/03/04(火) 13:17:47 未分類 トラックバック:0 コメント:2

走ることについて語るときに俺の語ること4

先日、発足したばかりのあるランニングサークルの練習会に参加した。
もともと団塊世代に向けたマラソン講座から生まれたサークルなので、メンバーは全員俺より年上、というか俺の親の世代くらいの人もいる。
数人のグループで1時間半ゆっくりと河川敷を走った。そしてこの90分間は、素人てれんこランナーとしてはまさに至福の90分間だった。
なぜなら、一緒に走ったのが浅井えり子さんなのだ。しかもずっと楽しくおしゃべりなんかしっちゃったりしながら!興奮でやや日本語乱れています。
言うまでもないが、浅井さんといえば国内外のレースで数多くの優勝経験を持つソウル五輪女子マラソン日本代表であり、LSD理論で多くの市民ランナーに支持される現役トップアスリートだ。
だけど、フルマラソンの経験もないにわかランナーの俺が、いくらオリンピック選手とはいえ、一緒に走っただけなのに至福ってのは大げさなんじゃねーの?とお思いの皆様。そのとおり。
俺が一番しびれたのはすれ違うランナーたちの視線や表情だ。
すれ違うランナーたちは浅井さんを見ると一瞬「おっ」という顔をする。そして野球少年がプロ野球選手を見るような、サッカー少年がJリーガーを見るような、落語少年が柳家権太楼師匠を見るような、ぽっと顔を赤らめて明らかにそんな顔になるのだ。
そしてその表情のまま、周りにいる俺たちに視線が移る。この視線が気持ちいい。
照れくさいような誇らしいような、俺までトップランナーになったような、わかるでしょ、そんな感じ。つい手を振りたくなったりする。
お前じゃぁないっ、と自分に突っ込みを入れながらも顔がにやけてしまうのがわかる。
一流の人は周りの人間を幸せにしてしまうんだなぁと感心した次第である。
まさに「虎の威を借る狐」という一席。とほほ
2008/03/03(月) 17:55:34 走ること トラックバック:0 コメント:5
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